今日は自分の誕生日だと気づいたのはもう夜も更けてからで、
キーリはちょっと残念に思いながらもコーヒーをかき混ぜる手を止めなかった。
 もっと早くに知ってたら多少うきうきしたかもしれないけれどプレゼントをくれる相手も買うつもりもなかっただろうから、
結局いつもどおりの一日だったと思う。
 それでも気づいてしまったら一人でいるのは寂しくて、
ベッドサイドに椅子を運んで行儀悪く背もたれにもたれてみたら意外に居心地がよかった。
 化石燃料のにおいがする部屋の中、赤毛の青年の飄々とした寝顔を眺めながらコーヒーをすすり小さな声でつぶやいてみる。

「あのね。今日誕生日なんだ」

 寝ていたって起きていたってもちろん反応はないはずの青年にこうやって話しかける癖がついてしまったのはいつからだろうと考える。
 ホットチョコレートを甘すぎると感じてコーヒーに切り替えたのはいつだっけ。
たぶん二十歳をすぎる前だったからおととしより前かな。

「明日からはもう春なんだね」

 寒さで弱っている鉢植えたちも元気になるだろう。

「あったかくてもあんまり遠くへ行っちゃダメだよ」

 こないだはふらっとどこかへ行ってしまって慌てて探したら公園のベンチで猫とならんでひなたぼっこをしていて、
キーリはそのときのことを思い出してちょっと笑顔になった。
だってひざにも肩にも子猫を乗っけてまるで着ぐるみみたいになってたから。

 着ぐるみのウサギの団長さんは元気だろうか。それからクマの青年は?
 大騒ぎになったあの夜、めずらしくキレていた横顔が浮かぶ。と言ってもほとんど無表情だったけれど。

「寂しいな……」

 ささやくと青年がわずかにまぶたを動かして、
その顔がなんだかとても心配そうに見えたのでキーリはマグカップを空にすると立ち上がった。

「ごめんね。大丈夫だから。おやすみ」

 かがみ込んで毛布からはみだした手を中に入れてあげようと青年の手のひらに触れる。
そっと持とうとしたその手にぎゅっと握り返された。
 ちょっと骨ばった華奢な手とその持ち主は何度も遠くに行っては帰ってきてくれた。それでいいよ、さみしくなんかない。
 キーリが微笑むと青年もほっとしたように息をついてまた眠り始めた。
 カップを置いてもういちど今度は床にすわる。ゆっくりゆっくり歌をうたっているうちに自分も眠ってしまった。



 三輪バイクの騒々しいエンジン音で目をさましたキーリは肩と腰の痛みに驚いてひゃっと声をあげた。
昨日の夜ベッドにもたれかかったままの姿勢で眠りこけていたみたいだ。

「うー、いったあ……」

 ぐるぐると肩を回しているとベッドの上で横向きに寝たまま目を開けている青年と目が合った。

「おはよう。へんなカッコのまま寝ちゃったよ」

 笑って部屋を出ていこうとしたとき背中に違和感と緊張感を感じてキーリは立ち止まった。
 振り返ろうかどうしようかためらっているうちにぽつりと声が聞こえた。

「……ぁ」

 声?

 伸ばした黒髪がぶんっと音をたてそうな勢いで振り返る。
 さっきと同じ姿勢のまま薄く開けた唇と戸惑っているような不安定な瞳にどこか寝ぼけたようないつもの表情。
だけどなにか、なにか違う気がする。

 何年もそこに立ちつくしていたような長い時間のあとでもういちど青年の唇が動いた。

「…………キー、リ……?」

 開きっぱなしの窓から砂をふくんだ黄色っぽい風が吹き込んできてそれでもキーリは目を閉じなかった。
 赤銅色の髪がくしゃくしゃにかき回されるそのひとつひとつの動きが目に焼きついて涙がこぼれそうになった。

「……ハーヴェイ?」

 聞き返すと無表情にほんの少しの笑みをのっけたあの顔でもういちど名前を呼ばれた。
 さっきと同じ所にひざをついて座るとぽんと頭に手をのせられてまた泣きそうになってしまう。

「…………間に、合わなかった」

 思いがけないことを言い出すのできょとんとして聞き返す。

「えっ? なにに?」
「キーリの、誕生日……」

 思わず首をぶんぶん振っていいよそんなのと言うと微妙に顔をしかめておまえなあと呆れたようなため息をつかれた。
 もしかして昨日の夜言ったのが聞こえてたんだろうか。そうだったらものすごく嬉しいような恥ずかしいような。

「……さむい」

 ぼそっと呟いた声も半眼の不機嫌そうな顔もなにもかも、キーリの大好きなハーヴェイが帰ってきた。
 そう気付いてしまうともう涙が止まらなくてぽろぽろとこぼれていく。

 そのまま微笑んでいつか彼がしてくれたのと同じように、キーリはそっと自分の唇をハーヴェイの唇に触れてふっと息をついた。

 唇を離して彼の目を真正面から見つめる。
一気に顔が赤くなってしまって口をぱくぱくさせてからキーリは思い切って言ってみる。

「あ、あったまった……かな」

 何を言ってるんだみたいな呆けた顔をしたあとでハーヴェイは無表情になって目をそらして、

「あったまった」

 不機嫌な顔でそっぽを向いたままいつの間にこんなこととかなんとか言うので、もう大人だもんと言い返してみる。
 どこがだよ変わってねえだろと苦笑ぎみの声がしてまた頭に手が置かれた。
 ほんのりと煙草のにおいがする毛布に頬をうずめて頭に置かれた手がそうっと髪をなでるのを感じながらキーリは窓の外を見上げた。

 窓の外には相変わらずの砂色の空と化石燃料の排気ガスの匂い。この匂いがしなくなるのはもう少し先のことなんだろう。
 春はまだ始まったばかりだから。