| 番外編 「アトリエでおしゃべり」 「うわぁ!」 すこし暖かみを増した日ざしが降りそそぐ、2月の真ん中の日曜日。 図書館の前の植え込みでは次々に新しい梅の花が咲いて、途切れることなく花びらと芳しい香りをこぼし続けている。 そのちょうど向かい、“広瀬”とささやかな表札を掲げた家の台所の窓からくぐもった悲鳴が聞こえた。 台所に立っているのは二人の少年だった。 オーブンの中ではココアスポンジが程よくふくらみ、手元からは甘いチョコレートのにおいが漂う。 心なごむその風景の中で、小柄な方の少年は大きな瞳をいっぱいに見開いて、チョコクリームの逆襲にあったもう一人の少年の顔を見つめていた。 茶色い、そしておそらく熱い液体が顔の表面をたれていく。ぼたり、と不吉な音をたてて足元にしみを作った。 「ど、どうなってる?」 「……パンダみたい。新種の」 顔をチョコレートで汚している少年が掛けていたメガネをはずす。おとなしそうな丸っこい目が現れてぱちぱちと瞬きをした。 「広瀬?」 「……」 「なんか言ってよ」 「……ここまで不器用だとは思わなかった。あ、いや、でも不器用か」 「なにそれ」 小柄な少年が笑いながらシンク下の物入れをあけ、布巾を取り出す。 手早く濡らしてしぼり、床に膝をついて足元に落ちたチョコレートをふき取ろうとして失敗した。 「取れないか。ごめん、人んちの台所なのに」 「俺がやったって言えば怒んないよ、きっと」 「じゃあ、『空崇くんがやりましたぁ』って言うよ」 「いいよ」 空崇はしょんぼりと手の中のハンドミキサーを見下ろして言う。 ひとしきりチョコレートを飛ばして気が済んだのか、ミキサー自体にはほとんど汚れが見当たらない。 「はあ、父さんは器用だったのにな……いてっ」 「大丈夫?」 「目にチョコ入った」 言いながら自分でも苦笑して、ぱたぱたと足音を立てて洗面所へ向かう。 すぐに水の流れる音が聞こえ始めた。お湯が出るまで待っているのか、なかなか止まらない。 飛び散ったチョコレートの片付けをしているところに、玄関のチャイムが間の抜けた音を立てた。 野宮、出てー、と空崇が遠くから言っている。 「はーい、どちらさま?」 声とともに玄関モニターのスイッチを入れる。二人の人影が映った。 かなり低い位置からレンズを覗き込むようにしている子と、画質の良くない画面でも分かるほど無表情できれいな顔立ちの子。 少年はその姿をみとめて、ふっと顔をほころばせた。 「有沢も来てくれたんだ。綸ちゃん、ありがとう」 『あれ、直人くん? 空崇くんは?』 「目にチョコが入ったから、洗面所にいるよ」 『間抜けだなあ。痛くないのか?』 『一樹、ちょっと失礼だよ』 直人はくすくす笑いながら玄関の鍵を開ける。 かすかに梅の香りをふくんだ風と一緒に二人が入ってきた。 この二人がいるだけで、今までいた家の中にあたたかい空気が流れ込んだように感じるから不思議だ。 「おじゃまします」 「これ、お礼にと思って持ってきた」 一樹が無表情に箱を差し出したところに空崇が顔を出す。 びしょびしょの前髪とメガネのないどこか間の抜けた目元に、みんなが思わず吹き出した。 見た目よりもずっしりと重い箱を受け取りながら直人が言う。 「ごめん、ケーキはもう少し時間かかるんだ。クリームを作り直さなきゃいけなくなって」 「……申し訳ないです」 空崇はちょっと頭を下げてみせてから、目の前に垂れてきた髪をうしろへ跳ねあげて人なつっこそうな笑みを浮かべた。 今日は、みんなで集まる初めてのお茶会だ。 * 空崇の父はそこそこに名の知れた画家だった。 彼が亡くなった後も、アトリエは別の人が引き継いで使っている。 今日はそこに大きなテーブルを運び込んで、やわらかい木の床の上に座ってお茶を楽しむことになった。 この家の庭はてんでんばらばら、自由気ままに木が生えている。枝の先に残ったカキをついばんでいた鳥が人の気配に驚いて飛んでいった。 庭に面した窓からは、複雑な形に切り取られた光が床へこぼれ落ちていく。 どの木のどの枝の間を通ってきたのかは分からないがきれいな正三角形になった光を手のひらに映して、一樹がかすかに不思議そうな色を浮かべて首をかしげた。 その様子に目を細めながら綸がポットを傾ける。紅茶のやわらかな香りが紅い水面から立ちのぼって、彼女の長いまつげを撫でていく。 「ケーキ行きまーす。どいてー」 間のびした声とともに直人が大きな平皿とともにアトリエのドアをくぐる。 危なげない手つきで、テーブルのちょうど真ん中にケーキが据えられた。 肩をすぼめた空崇がその後に続く。小皿やナイフ、フォークなどが籠に入ったものを運んできた。 「お皿割れてない?」 窓辺から首を伸ばして一樹がたずねる。唇を子どもっぽくとがらせて空崇が言い返す。 「割れないよ、籠に入ってるんだから」 「うん。からかっただけ」 一樹が心もち楽しそうに頬をゆるませる。貴重な微笑を向けられて、空崇は思わず笑い返した。 意外な組み合わせに残る二人は目を丸くしている。 「さてと。みんな揃うのは初めてだよね?」 「え、そうなの?」 綸が声をあげる。このアトリエに通っている彼女は直人を時々見かけるし、一樹がここへ一緒に来たことだって何度かある。 おもにここ二人がね、ときれいになったメガネ越しに空崇が直人と一樹を見比べて言った。 「じゃあ自己紹介がわりに、これに答えてもらうってことで」 テーブルの下から紙切れを取り出す。 小さな文字を追ってみんなが身を乗り出した。 * 01*お名前を教えて下さい。フリガナもお願いします。 空)広瀬空崇(ひろせそらたか)です。 綸)岩崎綸(いわさきりん)、です。 直)ボクは野宮直人(のみやなおと)。 一)有沢一樹(ありさわいつき)。 02*一人称は何ですか? 直)「ボク」だよ。 綸)わたしは……あ、「わたし」だね。 一)「俺」。 空)俺も「俺」かな。 03*皆には何と呼ばれていますか? 空)「広瀬」か「空崇くん」。母さんは「そら」とも呼ぶよ。 綸)「綸」かなあ。ちゃんづけで呼ぶ人もいるよ。 直)うーん、「野宮」がいちばん多いかな。 一)「一樹」。あ、今日は「有沢」とも呼ばれた。 直)ボクに? 一)そ。 04*性別・年齢(職業)・生年月日・血液型・身長は? 空)男で、17歳の高校生。12月29日生まれ。A型。身長はたしか174くらい、だったと思う。 綸)女の子で16歳、高校1年生で、お誕生日は9月13日で、えっと…… 一)血液型と、身長。 綸)そっか。AB型、146cmです。 直)男で5月17日生まれの17歳。広瀬とはおなじ高校に通ってるよ。O型で、身長は……165cm。 一)15歳、3月5日生まれ。高校生で、綸と一緒の芸術科。A型。身長は……(直人をちらっと見て)164くらいかな。 綸)あれ? なんか…… 一)なにもない。気のせい。 05*出演作品があればどうぞ。良かったらあらすじも教えてください。 空)みんな「天使のアトリエ」に出てるよね。あらすじは…… 直)こういう人たちの日常の話、みたいな? 空)アトリエと花はちょいちょい出てくるよね。 一)最近はお菓子が多いよな。食ってばっかり。 (みんな手元のチョコケーキを見下ろす。一樹は食べ終わっているのでお茶をすする) 綸)いちおう、恋物語って聞いているけど? 空)そうなの? 直)よくわかんないね。 一)これからなんだろ、たぶん。 06*特技や必殺技はありますか? 直)料理は得意だよ。射的も結構できるから、必殺技になるかもね。 空)俺は暗記。あと、なぜか犬になつかれるんだ。 綸)お茶をいれるのはスキだし、お姉ちゃんとかにもほめられるよ。 一)ポーカー。 全)ああ…… 綸)クラスのみんなは、「一樹の微苦笑は誰でも落とせる」って言ってたよ。これも必殺技だよね? 一)ええ? 誰だよそんなこと言ったの。 07*趣味は何ですか? 空)読書。あと、飲み物をつくって飲むこと。 直)お菓子の研究と人間観察。本を読むのもその一環、ってね。 綸・一)実習授業。 直)授業って…… 綸)だって芸術科だもん。面白いよね? 一)うん。一人でやるのも好きだけど、新しいことを教えてもらうのは楽しいから。 直)なんていい生徒なんだ! 空)俺らは退屈だよ。普通科っていうのもあるけど。 一)まあ、他に挙げるんなら猫と遊ぶことだな。 綸)わたしはお絵描き。 空)いつでも書いてるよね。 08*ファッション・アクセサリーにこだわりがありましたら教えてください。 空)ないなあ。父さんはシンプルで結構いい値段のばっかり持ってたから、出かけるときはそれを借りてくよ。 直)ボクは細身なのが好きだな。アクセサリーは持ってない。 一)俺はモノクロが基本で、アクセサリーは全部シルバー。 綸)あんまりこだわりはないかも。やわらかい色で、派手じゃなければ…… お母さんはレースとか好きなんだけど、汚しちゃうし。 一)ちっちゃい時はすごかったよな。 綸)あ、あんまり思い出させないで……(うつむいてチョコケーキをつつく) 09*好きな言葉は? 直)へんかもしれないけど、「羊が人を食う」。 空)世界史で習ったやつ? 直)そうそう。シュールだよね。 一)「我思う、ゆえに我あり」。 綸)「花さそう 嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり」。 空)小倉百人一首、96番かな。 綸)そうなの? 空)たしかね。俺は……「袖すりあうも他生の縁」。 10*好きな場所は? 綸)アトリエ。 直)この家の本棚の前かな。あ、でも電車の中も面白くて好き。 空)リビングか庭。毎日いるんだけどね。 一)猫がいるから、自分の部屋。あとは美術室とか図書館。 直)そういえば寝てたよね、図書館で。 一)あれは、リラックスしてたんだよ…… 11*好きなタイプは? 全)……… 一)……誰か喋れよ… 直)…ボク、面白い人がいいな。変わり者っぽい人。それであと、自分より小さい子。 空)料理ができて、一緒にいてくれる人。あ、器用な人のほうがいいな。 一)からかいがいのある人…… 直)ひど。 一)じゃあ、個性を認められる人。 空)綸ちゃんは? 綸)ううーんと、あのね、手の大きい人。で、優しくて、甘いもの好きで、うるさくしなくて…… 空)い、意外にいろいろあるんだね。 12*苦手なタイプは? 一)タイプっていうんじゃないけど、ブリッ子とカッコつけ。あと、いちいち人に絡んでくるやつら。 中学の卒業アルバムでアンケートとったときはやばかったな…… 綸)そうだったの? カッコいい人・キレイな人の2冠だったのは知ってるけど。 空・直(それはふつう、男女それぞれから一人ずつ決めるものでは……?) 一)アンケート係と仲良かったからズルしたんだ、って言ってくる奴がいてさ。ほっといたら整形したとか言い出して。 俺はなんもしてねぇし、生まれつきこの顔だっつーの。 空)たいへんだね……。 直)ボクもなぜか「かわいい人」の2位だったよ。女の子がみんなで投票したんだって。 女の子は、じつはちょっと苦手なんだけどね…… 空)うそだあ、よく喋ってるじゃん。 直)あれは業務用。適当にあしらって、早く開放してもらえるように、それはそれは努力と研究を重ねたんだよ! 綸)……がんばったんだね、直人くん。 13*気になっている人はいますか? 綸)いないよ。一樹は? 一)いなくも、ない。 綸)あら。よかった。 空)俺もいないなあ。 直)広瀬、嘘つくなよ。 空)え、ついてないよ? そういう野宮はどうなのさ。 直)ボクはいるよ。 空)あ……、そうなんだ。ええ? 誰? 直)誰だろうね。 一)……意味が違うけどさ、木原先生、最近やたらきちんとした服着てない? 綸)そういえば、襟とか毎日アイロンかけたっぽくなってるね。 一)ぜったい怪しいだろ。なんかあったんだ、きっと。 14*その人は自分をどう思っていると思いますか? 一)たぶん真面目だと思われてるんじゃないかな。提出物はちゃんと出してるし。 綸)……先生じゃなくて。 直)いまいち考えが読みにくい人だから。面白いおもちゃみたいに思われてるんじゃない? 空)誰? あとでこっそり教えてよ。 一)俺は、絶対誤解されてる自信がある。 直)なにを? 一)……さあ? 15*今、大切なものはありますか? 綸)やっぱり、描きかけの絵。あと、高校入ってからお友達もたくさんできたし、もちろん家族も大切に思ってるよ。 一)だな。俺の場合、綸のにプラス猫かな。 直)ボクは……うーん、いろんな人を見てるとすっごく面白いから、この世界全部。 空)俺は「なにが」って具体的には言えないけど、でも持ってる物はなくしたくないな。 だから……まとめると、野宮と一緒になるかな。 # 最後に一言どうぞ。 一)こんなに喋ったの、久しぶりかも。 綸)ねー。でも面白かったよ。 直)さてと、そろそろ片付けなきゃね。だれかこのケーキの残り食べない? 一)いただきます。 空)あ、忘れてた。とっておきの紅茶があるんだ! イベントのある日にしか飲ませてもらえなかった、たっかい紅茶。 綸)飲んじゃっていいの? 空)だって父さんのだから。つまりは俺と母さんのものだよ。 綸)でも…… 空)父さんだって、俺のプリン食べちゃったりアイスくれなかったりしたし。 直)飲んじゃえ飲んじゃえ。 * 男二人が台所に戻っていくうしろ姿を見送って、一樹は気づかうような視線を投げる。 テーブルのふちにひじを乗せて、傾きかけたとろりと濃い色の光の中で、綸は小さなあくびをした。 薄く涙のういた瞳が一樹に気づいてふっと細められた。 「だいじょうぶ」 無垢木の床に映った窓枠の影を指先でなぞりながら、綸は優しい声でそう言った。 「もう、わたしは大丈夫だよ」 「……そっか」 聞こえないくらいの声で一樹がつぶやいた。食べかけのチョコレートケーキが皿の上にぱたりと倒れる。 削りチョコレートの一枚一枚に西日が透けるのをしばらく見つめていた。 「直人くん、お料理じょうずだね」 「困ったことに」 なぜか仏頂面で一樹が答える。つまらなさそうにテーブルにもたれかかって目を細めている横顔を見て、綸はくすくすと笑った。 開け放されたドアの向こうで二人の声が綸を呼ぶ。同時に立ち上がった一樹を見上げて、不思議そうな顔をした。 台所に顔を出すと、直人が一樹のほうを振り返って箱を掲げて見せる。 「これって何?」 「もらった物の中身を聞くなよ……」 「じゃあ、開けていい?」 「どーぞ」 白い箱のふたを開けて、中につめられた新聞紙を見つけてちょっと眉を寄せる。 がさがさと中を探っていた直人がふと手を止めたのを見て、一樹は唇のはしを持ち上げた。 「……きれい」 「だろ」 その手には透明なピンク色のガラス瓶が握られていた。木でできたふたは薄い緑色に塗られている。 手首を動かすと角砂糖がころんと音を立てた。 「こないだの実習で作った瓶だね」 「うん。ハナミズキの色をイメージしてみました」 綸と一樹の説明も聞いているのかいないのか、直人はくるくると手の中で瓶を転がしている。 「秘密の薬みたいだ」 「飲んだらどうなるかは知らないよ?」 ぼんやりとした声に苦笑いをうかべて一樹が言う。 直人は木のふたを開けて、止める間もなく角砂糖をひとつぶ口の中に放りこんだ。 「甘い」 うれしそうに細めた瞳で見つめられた一樹は首をかしげた。 「ハナミズキの花言葉って知ってる?」 「ううん」 「『返礼』だよ。チョコケーキ、ごちそうさま」 * 帰り道、電車に揺られている一樹の視界を並木道がよぎった。隣に立っている綸が、ハナミズキ通りだって、と看板を読み上げる。 夕暮れの色に照らされた冬のハナミズキ通りには、花の代わりにたくさんの人の姿が見えた。 ハナミズキには、さっき彼に言わなかったもうひとつの花言葉がある。 あの歌も、もしかしたら本当はそう言いたかったんじゃないかな、なんて思ってしまうような。 「『私の想いを受けてください』、なんて、そう簡単に言えるもんじゃないよな……」 ちいさくちいさくつぶやいた声は、電車の揺れる音にかき消されて自分の耳にも届かなかった。 綸は知っているのかいないのか、窓に向かって小さくあくびをした。 |