| 2月の話 (1)梅の花の話 梅の花が散っている。自転車のサドルを手で払えば、小さな花吹雪ができた。 細めた目のすきまに、さっきの彼の瞳がちらりと映る。とまどいながら、それでもまっすぐに見つめ返してきた強い瞳。 あのとき、たしかに体の奥が震えた。すこし怖かったのかもしれない。 約束を破ってしまうことが。 それとも、自分の弱いところ――男になりきれないまま中途半端でいることが、分かってしまうことが? 頭でつぶやいてみた。 春にはまだ遠い、2月の冷たい空気が短く切った髪の間から染み込んでくる。 「……帰ろ」 自転車を出した瞬間、自分の名前が目に入る。ありさわ、いつき。 名前を読み上げた彼の声が耳の奥でくるくる回っているような、そんな気がした。 * 制服から普段着に着がえて居間へ降りる。背の高いうしろ姿がこっちを振り返って微笑んだ。 「ちょうどいいところに来た。手伝ってくれよ」 仕事の関係で家を離れていた兄さんが帰ってきて、今日で5日目になる。 ワイシャツ姿で鍋をかき混ぜている姿はちょっとちぐはぐで、でもなんだかほっとする。 「じゃ、サラダだけ。 母さんは?」 「お母さん同士で食事会っつって、カレーだけ作って出かけた。 父さんは残業だから、先に食ってていいって。メール来てた」 「ふうん」 目の前に置かれたレタスをちぎりながらあいづちをうつ。 彼は野菜好きかな。キライっぽいな。甘党だって言ってたし、なんか子どもっぽいし。 ああでも、ふっと大人っぽく見えるときもあった…… 兄さんが手元をのぞき込んで、おいおいと慌てた声を出した。 「そんなに細かくしてどうすんだ」 「あ」 急いで戸棚からザルを出して、こま切れになってしまったレタスをあける。 蛇口の下でわしゃわしゃと黄緑色の葉を洗いながら、 「なんか、あったのか」 「なんでもないよ」 「……嘘つけ」 「……じゃあなんだと思う?」 「男だろ」 どきりとしたのが顔に出てしまう。悔しくて、口をへの字にして目をそらした。 テーブル拭こうか、と言う自分の声は明らかに頭の上を泳いでいる。 もつれがちな指で布巾を探っているとことろを大きな手が押しとどめた。 「怒られたみたいな顔すんなよ。 おれはべつに怒るつもりも、からかうつもりもない。 一樹がちゃんと、好きだって思える奴なら大丈夫だとも思うし」 「な、なに言ってんだよ。俺は」 「『女の子なんかじゃない』、か? んなわけないだろ」 見透かしたようでも決め付けるようでもなく、ただ淡々と兄さんが言う。 「おれさ、気づいてたんだよ。一樹がわざと、男っぽくなろうとしてること。 原因も、たぶん、分かってんだと思う……っつーか、おれじゃないか?」 「……俺だよ。俺がそうしてんだから」 大きなため息が前髪にかかった。挑むように見上げると、兄さんは困ったみたいに笑っていた。 「あれだろ? ずっと前におれが失恋したときの」 ぜんぶ、分かってるんだ。 顔をそむけるのをやめて、黙ってうなずく。その話が出たのは、俺たちの間では初めてだった。 「おれが『女子とはもう付き合わない』って言ったらお前、『じゃあ一樹、女の子やめる』っつってさ。 それからは絶対に女の子っぽい物ほしがらなかったしさ、ほんとに弟みたいな感じで……。 正直すげえ助かったんだよ。認めてもらえてる、みたいな気がして。 でもさ、おれが言うのも変だけど、もう……やめてもいいんだぞ?」 俺は布巾を絞っていた手を止めて、ぼんやり突っ立って聞いていた。 「妹を心配させて気ぃ使わせて、そのうえつらい思いまでさせるなんて、おれはいやだ。 もう、ちゃんと自分のことは自分で面倒見れるからさ、お前も自分のしたいようにしてくれよ?」 布巾に含まれていた水の最後の一滴がぽたりと落ちてから、兄さんを見上げる。 「……俺、スカート嫌いなんだけど」 「おれは好きだ。あ、見るほうな」 「……バカ」 「だよな」 食卓の上はがらんとしている。しばらく腕を組んで頭をひねってから、兄さんはカレーの大きな鍋を真ん中に置いた。 つぎに冷蔵庫を開けてごそごそやっている。お昼の残りのとんかつをふた切れとソースだのチーズだのを出してきて、カレー皿の間に並べ始めた。 パズルのように食卓のすきまが埋まっていくのが面白くて手伝ったら、あっというまにさみしかった食卓が食べ物で埋まった。 親もいないことだししたいようにしようと兄さんが言うので、俺はさっそくご飯とルーを全部かき混ぜた。 あちこちにチーズを振りかけたり福神漬けをのっけたりして味を変えていく。 ふと顔を上げると、兄さんも同じようにミックスしたものをスプーンですくって口に運んでいた。 「奇遇、なのか?」 「遺伝だろ、どっちかっつーと」 「うわ。理系人間め」 「うっせ」 片付けは兄さんがやった。俺には、冷蔵庫の中に物を全部戻すことができなかったから。 |