甘いものの話

 春も近づき少しずつ日が長くなってきた。野宮直人がそのことに気付いたのは、窓の外がまだ明るかったからだ。
 葉山市立図書館は、そろそろ閉館時間の6時を迎えようとしている。

 館内放送の音楽ががらんと高い天井に響く中で、直人は借りた本をしまう手を止め、斜め向かいの席を見つめた。
 そこにいるのは細い足を灰色のズボンに包んだ少年。
 まっすぐな黒髪の下で、女の子たちのため息か悲鳴を誘いそうな顔をほころばせて、ぐっすりと眠っている。

 はあー、綺麗な顔してるよな。

 親友の好きな子の男友達、という気まずいポジションにいる彼の寝顔に、直人はため息をもらした。

「もう閉館だよ?」

 せっかく声をかけたにもかかわらず、ぴくりともしない。
 ちらちらと横目で彼を見ながら、直人は借りた本を鞄にしまいこんだ。

「えーと、一樹?」

 その一言で彼の目が大きく見開かれた。

「……俺?」
「そこの子たち、もう閉館ですよ!」

 窓を閉めにきた職員にせかされて、二人はあわてて荷物を抱えると図書館から外へ出た。
 頬にあたる夜風には、早咲きの桜の花びらがまじっている。

「あぶね。俺また寝てた?」
「うん。ぐっすりと」
「ふうん。で、君だれ?」

 口調は機敏だがまだすっかり目覚めてはいないようで、小首をかしげる仕草は子猫にも似ている。
 クールに見えて意外にこの人子供かも。
 直人はいつもの観察グセを発揮しながら答える。

「岩崎さんがアトリエを借りてる、広瀬の、友達」
「あの、玄関にいた? こないだ行ったとき」
「そうそう」
「甘い物好き?」

 突然の質問に、直人はきょとんとした。

「洋菓子も和菓子も好きだよ」
「食いにいこう? おごるから」

 うなずいて、並んで歩き出す。
 ちらりと振り返った広瀬の家には、あたたかそうな明かりがついていた。

 *

 なんでほぼ初対面のボクを誘うんだろう、という疑問は一樹の第一声でとけた。

「広瀬空崇ってどんなやつ?」

 真面目な表情の彼をまえに、考えるふりを装ってスプーンを口へと運んだ。
 冷やしぜんざいの白玉を口の中で転がし、じっくりと味わってから飲みこむ。
 ほんのりした甘さと冷たさが絶品だ。

「おいしいね、これ」
「おい」

 やや呆れたような声。切れ長の目ににらまれて、ボクは肩をすくめてみせる。
 律儀にも、彼はおしるこにまだ手を付けていない。

「聞いてるって。広瀬ねえ……やたら素直で、バカ正直」
「子供っぽい?」
「いいや。たぶん精神年齢はボクより上」
「……それならいいか」

 熱いおしるこに口をつけながら呟いたのを、ボクは聞き逃さなかった。

「なにが?」
「ん。綸、基本男嫌いだから。大丈夫かなって」
「なんで?」
「いろいろあって。中学のとき」

 形のいい眉がひそめられ、無表情にかすかな嫌悪が浮かぶ。
 どこかをじっと見つめているが、甘味屋のこぢんまりした店内には見る物はあまりない。
 誰かを思い浮かべて、目の前にいないそいつを睨みつけているように見える。たとえば、友達に嫌がらせをした相手とか。
 その顔でだいたい想像がついてしまう自分の洞察力がちょっとうっとうしかった。
 なんで人は弱いやつをイジメたがるのかね、と言ってぜんざいをすすると、また彼が呆れた声を出した。

「いきなり深いこと言うな。しかもあんこ頬張りながら」
「考え事には甘い物、だよ」
「まったく」

 笑った彼の口元におしるこの甘いしずくがついている。
 ボクが言うより早く、彼の舌がそれを舐めとった。
 その仕草はくぐもった照明の下でなんとも色っぽくうつり、ボクはほんの一瞬思わず見惚れた。

 いやいや、美形とはいえ男だし。……もったいないことに。

 お椀から顔を上げた彼と目が合う。

「なに?」
「ん、綸ちゃん男嫌いなのに、なんでキミは平気なのかなって」

 至極ふつうに聞こえるように言いつくろう。こういうときの対応は、我ながら上手いと思う。
 今度は彼がきょとんとし、はっと口を開き、憮然としてからさいごに薄く笑った。
 すべての表情はきれいな顔の上で起こったかすかな変化で、だからボクはとても珍しい蝶を見つけたときのように目を見開いた。

「……男らしくないからじゃん」

 それはそうだと頷くボクの前で、彼は制服のポケットから携帯を取り出した。黒い本体にシルバーのストラップが揺れる。
 よく見ると華奢なクロスにすみれ色の石がはめ込まれていて、ちょっと女の子っぽい。

「アドレス教えて?」
「いいよ」

 使い込まれた木のテーブルの上で、携帯電話をつきあわせる。

 赤外線を待つあいだの微妙な間がいやだ、笑いそうになると彼が言う。
 笑えばと返したら、俺が急に笑ったら不気味だろとまた呆れた声で言われた。

 有沢 一樹というのが彼の名前だった。かずきではなく、いつきという澄んだ音がよく似合う。

「でも意外だね。あんまりこういうことしないかと思ってた」
「しない。いつもは」
「……? じゃあなんで?」

 冷めたおしるこをゆっくりと喉に流し込んでから、彼はなぜかニヤリと笑った。

「好きなんだ」

 なんでもないふうに言って、彼は席を立った。
 慌ててボクもぜんざいをかき込み、後を追うようにして立ち上がる。
 すでに彼は二人分の会計を済ませたところだった。

 気まずいまま外に出る。夜風がいつの間にかほてった頬に気持ちいい。

「さっきのって、どういう……」
「そのまんまだけど?」

 わざと目を合わせないですたすた歩いていく、思ったより小柄な彼。
 追いつくと制服の赤いネクタイが風にあおられて、ボクの首筋に当たった。

「でもボク、男だよ?」
「知ってる」

 ふと彼が足を止めて振り向いた。無表情に不安そうな影がさしている。

「困る?」

 ほんのり切なそうな口調で言われて、ボクはひどいことをしたような気がして思わず首を振った。

「いや……困るってほどじゃ」
「そっか。良かった」

 しばらく道路のデコボコを見つめながら黙って歩く。
 視界に入った桜の花びらに顔を上げて、図書館と駅への分かれ道にきたことに気付いた。

「じゃあ俺、チャリだから」
「あ……、うん」

 すごく気の抜けている声で答える。
 一樹は苦笑いをうかべて、指先でボクの頬にちょんと触れた。

「……え? っと、なに?」

 まともに言葉の出ないボクを彼はおかしそうに見ている。

「スキだらけ。ちゃんと帰れる?」
「う、か、帰れるっ」
「じゃあ今度こそ」

 図書館の方へ歩いていく彼を見送ってからも、ボクはしばらくそこに立ち尽くしていた。