エピローグがわりの話


 アトリエの壁に青空の絵を描いてもらったのはいつだったろう。
 雲もないただ青い一面を見て、たしかにそれは空なのだと思ったのはいつだったろう。

 そのずっと後になって、ちいさな女の子にその絵を見せたのはいつだったろう。

 ただ青い壁を見て、たしかにこれは空なのねと言ってくれた。
 遠いような近いような、それはいつのことだったろう。



 夏の朝というのは格別だと思う。
 空崇はその静まり返った空気を肌に感じながら、ゆっくりゆっくり階段を下りる。
 原稿を昨日の締め切りにどうにか間に合わせて、そのまま倒れるように眠ってしまったので、体のあちこちが痛い。

 階下にはひくく流れるような薄明るい朝陽。その奥にひっそりと、隠れるようにして小さなドアがある。
 その中に、ちいさな女の子はもういない。

 半分開いたままのドアをのぞくと、こちらに背を向けて立っている綸のうしろ姿が見える。
 背中に真剣な画家の迫力を感じて、空崇は息をひそめた。
 少年のように心臓が高鳴る。

 じっと空の壁を見上げている。
 その手には、筆。

 綸の長いまつげがまたたき、手首がひらめいて、 すっ と白い線が生まれた。

「飛行機雲」

 跳ねるように振り返った彼女は照れ笑いを浮かべて、

「好きなのでしょう?」
「うん。ありがと」
「誕生日おめでとう」

 伏せた目元までが自然にゆるんでしまう。
 薄く開けたまぶたの向こう、彼女の手と綺麗なつめを見る。
 にっこりと笑っている顔をもう一度見つめて、そしてこの手を握らなくて良かったと思った。

 飛行機雲を見上げる。

 どこまでも続いていくのだと、続いていけるのだと、そう、思った。