プロローグがわりの話


 9月。秋らしい高い青空の下、住宅街が続いている。そのはずれ、図書館の角を曲がったところにすこし変わった家がある。
 いろいろな樹が生えている庭と大きめの窓が目をひくその家には、小屋のようなものがくっついて建っているのだ。
 上から見れば、大きな青い屋根に小さな赤い屋根、庭の緑がなんとも鮮やかだろう。

 そんな家の青い屋根の下、高校生くらいの少年がココアを飲んでいた。あたたかい湯気と甘いにおいが、他に誰もいない広い家の中をただよっていく。

 くしゃくしゃの髪と黒目がちの瞳がかわいらしい印象のその少年は、テーブルの上のメモ用紙をむずかしい顔で眺めている。

「そらたかへ
 父さんが留守のあいだに、もしかしたら
 女の子が来るかもしれないけど、
 そしたら家に入れたげてください。
 アトリエを貸したげる約束をした子です。いわさ
 きりんちゃんとゆう子です。それじゃあよろしく」

 四角いような丸っこいような癖字は彼の父親のものだ。微妙におかしい日本語と息子である空崇の名前がひらがななのは良いとして――だいたい自分でも崇の字は面倒くさい――けっきょく誰が訪ねてくるのかよく判らないのだ。
 きりんちゃんと言う子がひとり来るのか、きりんちゃんとゆう子のふたりなのか。

 本人に聞こうと思っても、彼はもうこの世にいない。

 そこそこ有名な画家だった空崇の父親は、半年前に東京で開かれた展覧会に出かけて、交通事故で亡くなった。
 事故そのものはきちんと速やかに片付いたし、母親はもともと忙しいくらい働いていたから生活はどうにかなっている。
 空崇ももう高校1年生を終えようとしていた頃だったから、母親の帰りが前より遅くなってもべつに平気だった。

 けれど、この小さな謎はまだ空崇の中にひっかかっている。
 まだ現れないその女の子、もしくは女の子たちは誰だろう?

「うーん……」

 ココアのいちばん底をゆっくりと味わいながらうなるそのとき、玄関のチャイムが鳴った。
 誰だろうと首をかしげつつそばに置いてあった眼鏡をかけ、玄関に向かう。

 ドアの向こう、明るい午後の日差しの中に女の子がひとり立っていた。

「あっ!」

 相手がなにか言うよりも早く、空崇がさけんだ。

「もしかして、きりんちゃん?!」
「え?」

 13才くらいに見えるちいさな少女は、気おされたように小さな声で聞きかえす。目をまたたくのに合わせて、長いまつげがぱちぱちと動いた。

「えっと……岩崎 綸、です」

 空崇はいわさき、りんと繰り返して赤面した。
 気まずくなって黙り込みそうになった瞬間、今度は綸が声をあげる。

「あっ、そらたかくん?」
「俺の名前、知ってるの? 父さんの知り合い?」
「うん、広瀬さんはうちの時計屋のお客さんで……」

 すこしためらってから、ご愁傷様でしたといって目をふせた。
 素直に死を悼んでいるその表情を見て、空崇は彼女が泣きだしそうな気がした。

「うん、ありがと」

 気軽な調子で答えると、綸はびっくりしたように顔を上げてちょっとだけ目を細めた。

「父さんから聞いてるよ。アトリエを貸すって約束してたんだよね」
「そう、なのだけど……」

 臆病そうに目線を落として、口ごもる。
 空崇はのんびりと声をかけた。

「中を見る?」
「あっ、えと、もし良かったら」

 アトリエへ向かおうとする空崇の背中に、綸がおじゃましますと言うのが聞こえた。


 この家はちょっと変わったつくりをしていて、2階からの階段がリビングに顔を出している。
 そしてその階段の陰に隠れるようにして、ちんまりとしたドアがあるのだ。

 空崇はそのドアの横に立って、半分振りむいた姿勢で綸を見ていた。
 彼女は部屋いっぱいに広がったココアの匂いに首をかしげ、置いたままになっていたマグカップを見つけて微笑んだ。
 本当に嬉しそうに。
 けれどもその笑顔は、見つめられていると気づいたとたんに消えてしまった。

 ひそかに残念がる空崇にきょとんとした顔を向け、

「そこが入り口?」
「そう。“どこかへドア”って呼んでるんだ。アトリエにつながったとこしか見たことないけどね」

 おどけて言ってみるが、綸は笑わない。肩がぴくりと動いて、怯えたようにすぼめられた。
 空崇は「怖がらせちゃったかな」と心の中でつぶやいて、そっとドアを開けた。


 いつものように整頓され並べられたキャンパスが、部屋のすみの暗がりからふたりを眠たげな目で見ている。
 隣に並ぶ画集や絵の具のカタログも、おや女の子が入ってきたと頭をもたげ――思わずそんな想像をめぐらせるほど、アトリエの中には今もなおしっとりと気配が満ちている。

 でも活気がない、と空崇は思う。
 父さんが生きていたころは仕事や役目があって、いそがしく働いていた物たちが転がったままになっている。
 毎日毎日もの思いにふけって、凝り固まった手足を伸ばすこともしないで。

 そんな中に、綸はためらうことなく踏み入った。

 カーテンの隙間からもれる薄明かりの中、足音が響く。
 部屋に置かれたからっぽのイーゼルのまえに半円を描くようにして、絵の具のチューブが散らばっている。
 青、たくさんの黄色、白、ピンク……それらのなかにぽっかりと道が伸びている、それをたどって綸がゆっくりと歩いていく。

「すごい……」

 イーゼルの手前で立ち止まった。
 ふっとうずくまり、ひとつの黄色にふれて、綸は言った。

「これ、“菜の花ばたけ”のときの」

 空崇はゆっくりと小さなため息をついて、さみしそうな声で答えた。

「片付けるのがもったいなくって」

 最後になってしまったその絵を描きあげて、絵の具を蹴散らしたままで、広瀬崇士は逝ってしまった。
 さよならも言わないで。

 うつむく空崇に、綸がそっと声をかけた。

「そらたかくん?」
「うん」

「本当にここをつかっていいの?」

 しずかな声に顔を上げ、空崇は目をみはった。
 立ち上がってこちらを見つめている綸に金色の西日がさして、やさしい光の王冠をかぶったように見える。
 もしくは、天使の輪。

「うん」

 ひとつ頷いて、窓を覆っていたカーテンを開ける。
 あふれる金色に目を細める綸の表情は、笑っているようにも泣いているようにも見える。

 キャンバスや筆洗液のびんや絵の具が、キラキラと拍手をしていた。